2004年7月~12月にかけてINAXギャラリーの「風と建築」巡回展(大阪、名古屋、東京)が開催されました.
その際にブックレット「風と建築」も刊行されて、シーダ・バーンが実施作品例として説明文とともに掲載されています.
東京では12月8日に講演会の機会に恵まれたため、本に掲載された説明文を,もう一度わかりやすくスライドとともにお話しました.
ここではその講演録を解題としてお読みください.
INAXギャラリーの関係者の方々には、数ある建築の中からシーダ・バーンを選び抜かれ、
長期にわたりお世話いただき感謝の念に耐えません.
この場を借りて,お礼申し上げます.
(文中太字部分が本文です.なおスライドは現在準備中です.少々お待ちください.)

夏蔦 なつつた 軒先

経歴

 長い間建築をやってきました。今から思えばあっという間ですが、約35年です。独立して個人住宅やマンション設計を経て今の家づくりで7年です。私自身この5年位ジージー啼いて発信している訳ですが、前の30年は地中にいる蝉の幼虫みたいなもんです。そんなふうに地味にゆっくりやってました。独立前は、学生時代から約20年間現代建築のデザインを考えていました。

自然と建築/修行時代

1970~80年代のことです。メタボリズムで有名な菊竹先生ですが、80年代はよく自然換気自然採光を唱えてられました。しかしほとんど誰も(所員も含めて)そこに注目しない状況でした。現代建築ですから、省エネのデータ取りとかエコロジーとかパッシブとか、もう少し次元を上げて環境論でいけば時流に乗ったのでしょうが。まあ大建築家ですから、環境建築というカテゴリーで括られるのも本心ではなかったというところでしょうか。


軽井沢 

1980年前後軽井沢の高輪美術館の設計監理を担当しました。まだ力不足なのに背伸びしすぎて、結構つらい想い出の現場でした。特に夏はクーラーがなくても涼しいという保養地ですから、自然との調和がテーマでした。自然採光と人工採光の部分を二つに分けて、これは自然採光の部分です。腰屋根がありますし、大形のサッシは一部開閉可能です。その時、不思議な感覚を経験しました。運営は当時飛ぶ鳥を落す西武百貨店ですから、ショップとカフェテリアはアールヴィヴァン(というブランド店)だったんです。そのカフェテリアの窓のデザインを先生に「欄間付き引き違いアルミサッシにしなさい」と言われて、違和感を感じた訳なんです。何しろモダンアートの先端(オープニング展示はデュシャン)を行くような現代美術館のレストスペースに欄間付き窓ですから。もう少し金をかけて大型開閉サッシにしたら良いのに、と当時は思いました。ドイツ製の大型窓もよく使っていただけにです。普通のアルミサッシも引き違いになると部材がごつくてダサいわけです。しかし自然採光自然換気という命題は密かに真面目に取り組んでいきたい私自身だったのですね。そのズレの感覚がずーっと残ってきたんです。

昼下がりの風が吹き抜ける縁側に面した座敷で、蝉の啼き声にまどろんだ少年の頃の記憶。生家の隣に初めて家を建てるにあたって、真夏のあのゆったりと吹き抜ける風の心地よさは忘れがたいものであった。

座敷

シーダバーンを作ってから、ことあるごとにこんな言い方が口癖になっていますが、これがその座敷なんです。私の感じる心地よい風とは、もうたっぷり十分な量の風が第一なんです。それを可能にしているのが、昔といっても、たぶん1940年前までのつくりの住宅でした。これは日本建築だけでなく東南アジアの特徴だろうと思いますが、残念ながら戦後はその伝統が急速に絶えてしまったんです。住宅ではないですが、四阿(あづまや)とか渡り廊下なんかでも感じるものです。特に南北両サイドに庭があって、縁側があって座敷があるという段階的,重層的な造りが日本建築の特徴だったと思います。そんな家の中で過ごした幼少期が、30年経ってみて、忘れがたいものになっていたと気づくんです。

歳月 

何故30年という歳月が流れたのかです。先程、学生時代を含めて20年間現代建築のデザインを考えたと言いましたが、やはり菊竹事務所時代のことが大きい訳です。菊竹先生は日本文化、特に木造については同世代の誰よりも造詣が深かったと思います。度々思い出すのは、「鳥居」の話です。これは田辺泰という建築史家の受け売りのようですが、私は菊竹先生の捉え所に感心する訳です。「日本建築を象徴するものとして、よく大黒柱が引用されるが、システムとして見るとやはり鳥居であろう」なるほど柱、桁だけでなく、貫という部材が入り、束や楔までが示されている、これは日本の木造架構のシンボルであります。それが神社のもっとも最初の門として誰もが確認できるわけですから、木造への畏敬の念の表明なわけです。この話から後に貫構造の住宅設計にのめり込む訳です。
事務所に入ってからですが菊竹先生のこのような日本建築へのオマージュとその後の現代建築に挑戦するスピリットが大好きになったわけです。ですから木造はほとんどタッチしない代わりに、鉄骨やコンクリートでその木造文化の特徴を表現できないかがテーマだった訳です。

事務所に入ってからですが菊竹先生のこのような日本建築へのオマージュとその後の現代建築に挑戦するスピリットが大好きになったわけです。ですから木造はほとんどタッチしない代わりに、鉄骨やコンクリートでその木造文化の特徴を表現できないかがテーマだった訳です。

担当したと思います。屋根はアンブレラストラクチャーといって標準化されたディテールを繰返し使って様々なバリエーションを考える、或いは解体したり移築したりという木造の現代建築への転用を試みたというものです。地域によって違いはあるが(コミュニティバンク) これは京都信用金庫の一連の建物のひとつですが、約50以上の店舗がコミュニティバンクというテーマで展開されまして、私は20位は標準のデザインの繰り返しを基本とする、あたかも木造建築のフレーバーがあります。しかし理想と現実は大分違っていたんです。まあこれについては先生の名誉のためにもこれ以上深入りしませんが。

スケッチ kinoie

現代木造住宅

 ところが独立してからは、皮肉にも入ってくるのは本当の木造住宅ばかりなんです。日本人の9割は木の家を望んでいるという実感、現実なんです。ですから当初は戸惑いました。何せ大学、実務を通して木造建築はほとんど身についていなかったからです。しかしながら数年経験して木造にも慣れると、今度は耐震性とか断熱性とか耐久性とかエネルギー効率とか科学的知識を駆使して施主の要望に答えるところまで来た訳です。木造であってもビルとかマンションとかと共通な価値観だとされて教えられ、また実務に反映させて来たからです。これは私だけでなく、建築のインテリはほぼ全員そうなんです。科学的な合理的思想が裏づけにあるわけです。
科学と言う言葉はsci+enceですから「知ること」という意味ですが、明治の日本人は大変教養が身についていて、これを科目ごとに学ぶとした訳です。大学では学科として分けて知ると言うことです。建築学科とか住居学科。それを経て「総合」するという方法論です。難しく言えば、分解してから組立てる、機械論的な要素還元論になる訳です。ですから複雑な現代建築を設計する方法としては最適なんです。こういったビルディングエレメントとでもいうものを統合する主役として建築家の存在が必要なんです。

 しかし自分が生まれ育った戦前の家のつくりと、今まで学んできた設計手法を比較すると何から何まで違うことに気が付いた。ひと昔前には当たり前のように使われていた無垢の柱、床板そして土壁は新建材にかわり、開放的な縁側は壁としなければならない。蚊取り線香の匂いや蝉の声と共にあの風を呼び戻したいノノいつしか築80年の生家のつくりを注視するようになった。

ひと昔前の住宅へ

ある時、この方法論のままでは昔の民家や寺社のもつ空間の迫力には到底及ばない、どうしてだろうと力不足を痛感するとともに焦りを感じたのでした。昔の木造民家は科学的アプローチされていないですよね。材料も限られているし住まい方も自然に寄り添う形です。現代住宅の様に材料や工法の性能やコストがデジタルに判定されるなんてありませんから。だけれども、住文化という観点から素材や空間を主体に比較した時、その魅力はどうだったか。私の場合は、古民家ではなくいわゆる昭和初期の近代和風と呼ばれる和風住宅に生まれ育ったものですから、縁側のガラス戸の連続性とか間仕切りの融通性と玄関の格式とか柱と壁のコントラストとかが印象に残っていますが、冬寒いとか昼暗いとか障子に目ありなどと住み難い部分を合わせもっている。清濁合わせ呑み込む必要がある訳で、その点欠点のリカバーされた現代住宅にはかなわない訳ですが、無垢材や建具の造作のレベルは凝ったもので、もう今となってはつくれといっても出来ないものも多いんです。

つづく

スケッチ キノイエ

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